鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

2.思想

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11月20日(金) 2:00頃

【私の私の研究】

悩ましい。
非常に、悩ましい・・・。

@「図解雑学 精神分析」
 著者:小野野 博、監修:富田 三樹生、2002年10月10日発行(ナツメ社)
A「心理療法個人授業」
 著者:河合 隼男・南 信坊、2002年6月15日発行(新潮社)
B「東京奇譚集」
 著者:村上 春樹、2005年9月18日発行(新潮社)

文筆家と言うのは、如何に大変なものであろうか。
私は文筆家で無いが、この様に何らかの文章を書いているからして、それとなく感じる。
「いざ、文章を書く」となると、あれこれ頭に過ぎるものだから、これを整理すると言うか、思い起こして秩序立てると言うか、とにかくその「書く前の作業」が億劫で難解で仕方ない。
この点は、このホームページの「作文の難しさ」で書いてあるからして余計だろう。


さて、私が兎に角今悩ましいのは、カウンセリングを受けるにあたって「論理武装」した点にある。
まあ、「論理武装」と言うまでには乏しい努力だろう、何せまだ、冒頭に挙げた@とAの図書を読んだだけであるからして。

しかし、この図書が私に喜ばしい厄介を、現在もたらしている。

私はこれまで(@とAの図書を読み終えるまでの過去3日より前)、「フロイト?ありゃ、想像の域を出ない空想だろう」とか、「精神分析?心理学?そりゃ、科学じゃないだろ」と、聞きかじりした情報で、おぼろげながら判断していた。

この判断は、差し詰め問題無い。
しかし、深刻な問題である。
自分で書いていても、釈然と説明できない。

「問題無い」とするのは、この判断がある側面では「間違っていない」と未だ解釈できるからであり、「深刻な問題だ」とするのは、「精神分析学について深い理解をしていない」とするからだ。

(やばい、パニックしそうなので、就寝前の薬を飲んでから、以下を続けよう。)

(薬飲んだ。以降、文章に誤字脱字等が増えるだろうが、数日後に読み返して修正するだろうから良しとして、リアルタイムに近い段階でこれを読む人は、情状酌量を。)

私は、私の研究段階で愈々「禁断の地」へ足を踏み入れてしまったのだ。
@の図書を読み終えて、「禁断の地」への扉の前へ私は立った。(一昨日の出来事。)
先程、Aの図書を読み終えた。
これで、「禁断の地」への扉を開けて踏み込んだら、先には高速の下りエスカレーターがあり、それに興味本位で乗っかってしまい、もう戻れそうに無い位置に立った事を意識させられた。

せめて、@とAの図書を読む間に、もうちょっと散歩して居ればよかった、立ち止まってれば良かった。
Aは「精神分析学」の中枢に迫るものだったからして、@を序章だとすれば、私は序章から一挙に起承転結、物語の醍醐味を飛び越え、終章に行ってしまった様な物だ。

こんな言い方をすればAの図書に変な恐怖を抱かせてしまう様な物だから、適当では無いかもしれない。
正当に、そして至って普通に評論(と言うのもおこがましいが)すれば、Aの図書は、「人生について、また、人間関係や社会について、思慮深くなれる良本である」と言ったところなので、「普通」の人が、「普通」に呼んで貰うと、「為に成る」本であろう。

だが、きつく本心を言ってしまえば、「この本を読んで、『恐怖』を考えたり感じなかったりする者は、まだまだ、人生経験が足りなく幼稚だ」となる。

この本(A)は、「先生」とする河合隼男氏から、「生徒」とする南信坊氏が講義を受けるような形で描かれている。
南信坊氏は、「精神分析学」に対して、殆ど無知な状態で講義に臨む。
かたや河合隼男氏は、この学問に関しては、日本で指折りの実践的有識者である。

本書の内容を、ある程度の誤解を承知で極々簡単に言ってしまえば、「専門的には無知だが大変真面目で学習意欲のある生徒が、先生により『精神分析学』の奥深さを知る」と言う何とも無さ気なものである。
読者は、「生徒」である河合隼男氏の立場になり読み進めていくのが一般的であろう。
私も、当然その様な態度で臨んでいた。
しかしながら、この「先生」である河合隼男氏が、とても私には厄介な者であったのだ。

私は、これまで生きてきた経験の中で、「そうであろう」と仮定していた現在の社会的な認識からすれば「否定的」とされる予測(法則性と言っても良いかもしれない)を、河合隼男氏の態度によって、実体化せざるを得なくなってしまった。
「出来れば悪夢であって欲しい」、「私の狂った妄想だ」と考えていた悪い想像を、ずばり彼の経験や学識的実績により、物語られたのだ。
勿論、少し頭が良いとされる科学的思考の持ち主は、河合隼男氏の話を「馬耳東風」とする事が出来るであろう。
だが、私にはそれが出来ない。
私のこれまでの、たった30年ちょっとの人生経験であるが、そこで体験・学習してきた事の鎖が、安易な科学論による逃避的払拭を妨げている。
そう、私の経験を学術に纏め上げてくれたと言って間違いは無いだろう。

人は悩める生き物なのだ。
そして、私は「悩むべき道筋」を与えられた人物であるらしい。
これを回避しようと思っても、私の好奇心が、これまた逆に拒ませる。

「精神分析学」の終章に至ったのだから、そこが終わりだで結論が付き、私は納得しているのではないかと他人が思うかもしれない。
確かに、私は納得している。
だが、「精神分析学」とは、終わり無き学問であったのだ。
そして、それを私は私自身の臨床で経験しようとしてまう。
尤も、自身で分析者と被分析者を同時にやる事は無理であろうが、それでも私はそこに挑むしか仕方の無いところまで来てしまった。

勿論、今は、「臨床心理士」からのカウンセリングを受けているので、彼を分析者として、私を被分析者とすれば、何の問題も無いのだろうが、私は非常に懐疑的な物を抱えている者であるから、そして今軽く「論理武装」した段階に至っては、カウンセラーに妄信的な信頼を置いてカウンセリングを受ける事は出来なくなってしまった。

それで、学問的欲求を果たしている事の一種の喜びとともに、本当の深さを知った「精神分析学」に恐怖を抱いている。


さてさて、また話は飛ぶが、このホームページの「個と集団(トポロジーとカウンセリングへのアプローチ」で、私の学習に対して見出している興味を示した。(下表)
 ミクロ経済学   個を明らかにしようとする心理学   古典的科学 
 マクロ経済学   計量心理学   トポロジーの科学 

この表の以下のように変更したいと考える。
 ミクロ経済学   心理学   古典的科学 
 マクロ経済学   精神分析学   トポロジーの科学 

まず、この変更で、はっきりと区分けをしたいのが、「心理学」と「精神分析学」についてである。
「心理」と言う言葉は、色々な使いようがあって、実際「精神分析学」の中でも「心理療法」など使われるから、「心理学」も「精神分析学」の一派一絡げに語ってしまいそうにある。
敢えてこれを避ける為に、私はここで「心理学」と「精神分析学」を素人ながら勝手に次のように定義しておこう。(話の便宜上も都合が良いので。)
勿論、この分類方法は、私独自のものであって、専門家には色々と指摘されそうだが、まあ、そこら辺はこれから語る事の本質とは拘らないので無視しよう。
「心理学」とは、日本では有名な「パブロフの犬」のパブロフの様に、動物実験等により、心理反応とでも言うべく事を具体的に見える行動と言う現象を探って理論付けをしているような流れ。(こちらは、まだまだ、書物も読んでいない段階なので詳しく知らない。)
そして、「精神分析学」とは、フロイトをはじめとしてその流れを汲む者達が臨床研究している学問の流れ。
これらは、大いに違う。
何せ、@の図書にも、Aの図書にも日本では有名な(恐らく世界的にも有名だろう)パブロフ氏の名前は出てこない。その他の、動物実験をしていた心理学者達の名前も出てこない。
だから、私は、今回学習した「フロイト系」の学問を「精神分析学」と呼ぶ事にする。

で、この「精神分析学」の中枢に向かっているAの図書の著者である河合隼男氏の態度、経験、学問感を垣間見ると、わたしはこれを「哲学」と言う方がシックリ来るのだ。
もっと具体的に言い換えるならば「人間関係学」と成り、「社会学」にも応用出来得る物だろうと推測する。
そう考えると、「心理学」は、「何とも閉塞的な古典的科学の枠にとらわれた小さなもの」として見えてきたので、前述の通りに表を変更したのだ。

まだまだ、書きたい事は沢山あるが、もう寝なければ明日のカウンセリングに支障があるから、今日はこの位にしておく。


最後に、何故Bの図書を挙げたかと言うと、まだこの本の数ページを呼んでいる段階なのだが、物語の主人公(著者本人だったと思う)が、「偶然の一致的経験」を物語っているところがあって、そこが今の私に妙に引っかかるからである。(本当に、冒頭部分の話で、まだ、そこまでしか呼んでいないのだが。)
何でも、ジャズの演奏会に行って、アンコールの時、著者が無数にある曲の中で、「ある2曲を演奏してもらいたいな」と考えていたところ、ものの見事にその2曲が演奏されたと言う事。
私は、ジャズに詳しくないので、どれほどの偶然なのかは計れないが、著者曰く「非常にマイナーな渋い曲」であり、「数多くあるジャズの曲から、そんなものが選ばれる事など予想できるものではない」と言うような語り口だったと記憶している。
私が、何でこんな事を引っ張り出したかと言うと、私はこの数日間、否、このホームページを書いた辺りからと言っても良いかもしれない、本当に偶然と言うには納まらない、何だか必然であったかのように錯覚する数々の廻り合わせがあり、今に至っている事を実感しているからだ。
同居人とのすったもんだをしながらも、こんなホームページを作れる時間が出来たし、良い入院経験で、色々な人々と出会い視野を広げる事が出来た。
主治医も、カウンセラーも、非常に「出来た人」であったし、転居後には直ぐに会社(アルバイトだが)に行けるようになって、余暇の多い今は学問に傾倒中。
今は親からは経済的支援がありつつもそれを苦にせず楽しめて、現在の会社でも徐々に認められ何れは経済的自立もできる立場になれるような事も示唆されている。
その会社に行く事が出来たのも、たまたま入院中に知り合った友人が、私の今の住まいに遊びに来た為だった。
さらに、「衝動買い」に近い感覚で買った十数万のマッサージチェアと電気炊飯器の代金も、ほぼ同額ぐらい(否、それ以上に)今月の競馬で収入があったりしたものだから、貯金には当初の思惑通り手を付けずに済んでいる。(ちなみに、FXは随分前に儲けて引き上げた時点から、「何れはまた手を出し失敗するだろう」と言う私自身の推測とは裏腹に、まだ、何もしていない。)
「偶然にしては出来すぎる」という事も世の中にあるものだと、実感せざるを得ない。

そしてこの事に、Aの書の河合隼男氏も、遠回りながら触れている。
これは、「何か運命的なものが作用している」といった感覚を持っていることで垣間見れる。

やはり、どうもこの世は、ある程度の必然があるように思えてならない。
自分がいくら「どうかしよう」と頑張ったところで、それが成功する訳でも無く、何も考えないように見られがちな場当たりの短絡的行動の繋がりで、何かの大仕事をやってのけている場合も多々ある。


これだけ書いてもまだ色々書きたい事が頭の中を廻っているが、もう時間なので寝る事とする。


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