鬱病生活記

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 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

1.ニート脱却へ

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10月13日(火) 21:00頃

【精神病の定義と過覚醒】

まず、ちょっと思い出した事を書いておく。
前回の診察の際、私が「考えすぎ」といった時に、主治医は「過覚醒」と言い直したのだと思う。(不図、思い出した記憶なので、定かではないが。)
精神学的には、私のような「考えすぎる」状態の事を、「過覚醒」の症状と捉えるのだろうか?
ちょっと、「過覚醒」について調べてみると、「脳への刺激が強くなり、肉体的にも活発になるが、食欲は減退する。」と言う。
「覚醒剤」等を使用すると、この様な状態に陥ると言う。
また、「統合失調症」も、ある意味「過覚醒」状態になっている結果、「覚醒剤」を使用した時にも症状の一端として見られる、幻聴や幻覚などを引き起こすとも考えられているらしい。

私は、確かに、食欲はそれ程無い。でも、ちゃんと腹が減り、何かしら食べるので、異常な域までに達しているとは思えない。
また、幻聴や幻覚なども無いから、「過覚醒」と言う程のものがあるとは考えにくいし、考えたく無い。

ちなみに、この私の「考えすぎる」と言った時の脳の働き方を自覚レベルで分析すると、仕事をしている時も、正に同じような状態(脳の働き方)をしているように思う。
今までは、単に「集中しているだけ」と考えていたのだが、私の集中力は、もしかしたら、一般に言われる集中力とは、異質な代物なのかもしれない。

「過覚醒」が人並みはずれた集中力やインスピレーションをもたらし、天才的な研究結果やアート作品を生み出す。一方、「過覚醒」が引き起こす物が間違った方向に向くと、幻聴や幻覚を引き起こし、「統合失調」等とレッテルを貼られる。


さて、私は前ページ(P.118)で、「私は病気では無い」と主張してしまったが、これには、大きな論点が失われている。
それは、「どういう状態や症状が病気であるか」、つまり、「精神病の定義とは何か」と言うところである。
現在の精神医学界では、このところがまだハッキリとしていないのだろう。
特に、最近増えていると言われる、新種の様に見える鬱病や統合失調症等は。
だから、「鬱病は単なる甘え」とか「鬱病になるものは精神的に弱いだけ」と言ったような解釈にも頷けてしまう側面があるのだ。
この分岐点を何処に置くかは、精神医学者達も悩んでいるのだろう。
だから、「『うつ』の状態が2週間以上続けば、『うつ状態』とする」と言った、何とも陳腐な区分けしか出来ないのだ。
私は、前にもどこかで同ような事を論点にして書いた事があったと思う。
今、またそれにぶつかってしまった。
「2週間以上続けば」という定義に当てはめると、私はかつて明らかに『うつ状態』であった。
そして、今、その状態を振り返ってみると、「甘え」や「精神的弱さ」では片付けられない何かが、確かにあった。
しかし、「「『うつ』の状態が2週間以上続けば」と区切ってしまえば、今までどれだけ『うつ状態』を経験していた事か。
また、さぞかし多くの人間が『うつ状態』に陥った経験を持っていることだろう。

だからと言って、「甘え」や「精神的弱さ」と言ってしまうのも短絡的過ぎる。
「精神的弱さ」については、それがどんなに掴み所の無い代物であるかは、ある側面で考えると良く分かる。

私は、数年前、ベランダの植木鉢に3つの柑橘類の種を植えた。
それらは芽を出し、2〜3年後には、小さいが、各々漸く木と言える状態になっていた。
だが、ある年の4月から5月にかけて、隣のビルが修繕工事を行っていた関係上、植木鉢のあるベランダにあまり日光が当たらなくなってしまった期間があった。
3つの木の内、2つは、3月下旬から敏感に春を感じ、新芽を出し始めていた。
その時、残されたもう1つは、冬の時と変わらず何の変化もしなかった。
私は、この1つを「育ちの悪いもの」と、捉えていた。
しかし、先に春を感じ新芽を出してしまっていた2本は、4月から5月にかけて、突然日光の得られない環境になったせいか、新芽の成長も止まり、枯れてしまった。
そして、春に鈍感だった1本だけが、5月下旬に日光が当たるようになってから、新芽を出し、すくすくと育っていった。
今、その木は、5〜6歳にはなっただろうか。
彼は今も私の直ぐそばに居る。
何とも健康的で、夏には枝葉を増やし、立派に成長し続けている。
私はこの木を見るにつけて、「周囲の環境に鈍感な方が、命をつなぎ旺盛に育っている」という事実を突きつけられ、少しの皮肉と共に、素直にその成長に喜びを感じている。
あの3つの種が、いつも日のあたる庭に埋められていたら、彼らの成育は違っており、各々の立場も逆転していたであろう。
敏感に春の気配を感じ取り枝葉を増やしていったものが確りとした根を張り、先に大きく高くなり、生育の遅い鈍感なものより多くの日光の権利を勝ち取り、成長して行っただろう。
根の張る領域が制限された植木鉢。
それに植えられた種。
例え、どんなに早く根を伸ばしても鉢という壁で遮られている。
成長の速いものには、余程窮屈な世界だっただろう。

この世は、優れているから命を永らえさせるとは限らない。
優れているからこそ、それが災いになり、ある一時の環境変化に飲まれ死んでいく。
それを単に「弱い」と形容してしまっては、何かが喉に支えてしまう。
「精神」、「神経」といっても良いかもしれない、これについても同じ事。
それが、強かったり優れていたりするからといって、精神的な病気になりやすいかどうかは、別の次元で考えるべきものなのだ。
少なくても、その者が居る環境を抜きにしては語れない。
「精神が強いか弱いか」、或いは、「神経が太いか細いか」などは、一様に計れない。
まず、その時の環境によって評価が分かれてくる。

「神経が太い」と言う言葉を例にすれば、少なくとも2つの側面がある事を説明できる。
ある時は、「神経が太い」事を、「精神的に強い」と良い方に解釈される。
しかし、ある時は、「神経が太い」事を、「鈍感だ」と悪く解釈されてしまう。
どう評価するかは場面により、つまり、環境次第で変わってしまう物なのだ。

私は、植木鉢に生える鈍感だった木を見る度、自然の、生命の神秘性を感じる。

人は評価するものではない。
まして、病気や障害と言うレッテル貼って見るものではない。
更に、そんなレッテルを貼った側の者が、レッテルを貼った理由を説明する事など、単なる我田引水に過ぎない。
人殺しが、「これこれ、こう行った経緯があり、結果、相手を殺さざるを得なかった。」と釈明し、言い訳をしているようなものだ。

それが単なる言い訳か、それとも、正当な理由があっての事か。
病気(特に精神病)や障害と言うレッテルを貼るにあたって、本当に確かな評価が行われているのか。
そもそも、変わり続ける人間社会で、確かな評価など存在するのだろうか。

私は、そんな意味を込めて、「私は病気ではない」と言いたいのだ。


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