鬱病生活記

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 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

1.ニート脱却へ

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11月23日(月) 22:00頃

【カウンセリングを振り返って(科学信仰に気付く)】

頭がおかしくなるような3連休であった。
これもカウンセリングの影響が少なからずある。

私は、前ページで「忘れていた」と記した時間帯に、カウンセリングとどの様なやり取りをしたのか思い出した。
2つの場面が頭に浮かんでいるのだが、人の記憶とは曖昧なもので、これら場面の順番は正確に思い出せない。
とりあえず、ここに、その内容を記す。


〔仮想カウンセリング〕
私は、余りにカウンセラーが私に何が起こったのか見当違いをしているように思えていた。
数分の沈黙の後だったと思う。
私は、昨日の自分の様子を思い出して口にした。
「先生、そう言えば私、昨日自分の考えている事を、一人部屋で喋ってみたんです。このカウンセリングって、基本的に私が勝手に喋るだけじゃないですか。だったら、一人で部屋で喋ってみたらどうなるだろうと思って、真剣に試してみたんですよ。」
実際、私は、本を読んでいる途中、不図思いついて、バーチャルカウンセリングをしてみたのである。
これは、「喋る、声にする」事にカウンセリングの意味があるのではないかと思って行った行為であった。
そんな事を言った私に、カウンセラーは「私を意識しないで喋ったのですか」と聞く。
私は、昨日の様子を思い起こしながら語った。
「ええ、先生を意識しないで・・・、否、先生を意識しないようにしていたから、逆に意識していたのか。『先生抜きでカウンセリングをしてみる』と言うイメージだったから、この実際のカウンセリングの場で先生に語りかけるような事を想定していたから、先生が居ないだけで、私は先生を意識していたのです。つまり、そうなると、単に『喋る、声に出す』と言う行為が、カウンセリングの効果かどうか検証する事になっていませんね。・・・そうか、それじゃあ、今度はこのカウンセリングの場を想定せずに、誰に語りかけると言う訳でも無く、本当に一人で喋ってみます。」
そう勝手に私は決心した。

この会話のせいなのか、後日(土曜日の事だった)、私は誰に語りかけるわけでもなく、一人で頭の中に思い浮かんだ事を喋ってみた。
なお、この『喋り』はボイスレコーダーで録音した。
録音したものを聞く事で、カウンセリングの意味を検証する素材になるだろうと考えて。


〔私の厭世観の根を探して〕
軽く論理武装をした私は、カウンセラーをからかっていた。
あからさまに卑下して、私は、「先生、『私は子供の頃、母親に愛されていなかったのよ。』とか、『私は子供の頃、父親に愛されていなかったのよ。』とか言ったら、納得するんですか?実際、私は自分の『厭世観の根元』がそんなところにあるとは思っていないのですがね。」とカウンセラーに尋ねた。
するとカウンセラーは、「何故子供の頃に拘るのですか?」と聞くもんだから、私は答えた。
「それじゃあ、最近の人間関係でショックな事を思い出して見ましょうか。・・・そうですね、それで言えばまず、私の今の状況の直接的原因となった人ですかね。これは、話すまでも無いでしょう。これが私の『厭世観の根元』であれば、簡単な事だ。まあ、解釈は先生に任せる事にして、そうですね・・・、遡って思い出すと・・・、高校時代、友達と一時『絶交状態』になった事があります。ですが、この時の出来事はきちんと租借しているから、PTSDみたいな事にはなっていないと思う。その友達の『絶交状態』は卒業までには回復していたし、『絶交状態』の時だって、そんなに大したダメージは受けていなかった。高校時代には結構大人になっていましたからね。思春期ではあっただろうけれど、本当、そんなに大した事ではなかった。まあ、解釈するのは先生だから、次に行ってみましょうか。・・・、えぇ〜、更に遡ると、そう、この技法の適用が決まる前、事前に私自身の事を説明する段階がありましたよね。その時に言った、小学生1年生の頃のOさんと喧嘩した話。でも、これだって、トラウマになるような出来事ではありませんでしたよ。結局、Oさんとは喧嘩して気まずい時期はあったのだけれど、直ぐに仲良くなって、殆ど毎日遊ぶ友達の1人になっていましたし、小学3年生に別れる時は、とても残念に感じる程でしたから。結局、そのOさんと私は、『似たもの同士』だったのでしょう。だから、喧嘩をしたり、仲良くなったりして・・・。これも『厭世観の根元』とは考え難い。まあ、解釈するのは先生ですが・・・。」


勿論、前回のカウンセリングの内容は、前ページと以上の2つが全てではないものの、概ねこれらが私の中で意識的に重要と考えられる事柄であった。

何故重要となるかと言えば、こんな事を話した結果として、私は、この3連休で「カウンセリングの意味」を素直に考えさせられた、考えてしまうような状況に追いこめられてしまったからだ。

少し前述したが、おかげで「一人で喋る」行動をしなければならなかったし、「厭世観」がどこから来るのか本気で考えてしまった。

酷く頭を使った。
そんな時にも拘らず、親が私の様子を見に泊りがけでやって来たものだから、この3連休は辛かった。
特段私と親との関係が悪い訳では無いのだが、とにかく近くに人が居る状況は、気が疲れて仕様が無い。
自分の事を考えるだけで精一杯の時に、他人の事まで意識させられるので困るのだ。
まあ、親が来て、私の境遇について少し深堀り出来た事もあったから、全くの無駄とは言い難いが、「今は止めてくれ」と言うのが率直な感想だった。

さて、そんな風に頭を使った結果、少し分かった事がある。
それは、私が「科学信仰者」であるかもしれない点だ。
この「科学信仰」と言うのは、現在の日本の「宗教」だろう。
勿論、日本だけでなく、欧米を中心に世界的に広く受け入れられている「宗教」と考えても良いだろう。
私は、「科学で証明できている事など、自然の極一部だけ。」と認識していながら、一方で、「科学的に(論理的に、と言っていいかもしれない)証明できなければ世の中に認められない。」と意識している側面があるのだ。
この気付きが、カウンセリングの効果と言えばそうなる。
しかし、私が独自に開発した「一人で喋る、それを録音して聞く」と言う物の効果かもしれない。
尤も、この私が開発した物も、カウンセリングの副産物とも言える。
(また、こんがらがってきた・・・。)


今これを書きながら、テレビから情報が流れてきている。
死体遺棄事件の容疑者で、数年間の逃亡の挙句、漸く捕まった人の話題をやっている。
なんでも「一週間断食している」のだそう。
どうやらこのテレビからの情報によれば、「一週間断食」がとても奇妙な事らしい。
一般的にも、そんな風に感じられているのだろうか。
だとすれば、「余程皆さんボケていますね」と私は感じてしまう。
数年間逃亡していたような状況なのだから、そして結局、自身の意に反して捕まってしまった状況なのだろうから、意識的に「断食」ぐらいのパフォーマンスなどをしても、全く不思議ではない。
第一、水分を取っているようなので、そのぐらいの断食では決して死なないだろうし、いざ倒れたら点滴すれば大丈夫だろう。
まだまだ、この容疑者は意識的に行動している範疇にしか考えられない。
そんなに騒ぐ事なのか?
また厭世観が私に纏わりつく。
こんな感覚で人間見てしまうように浅はかな世の中なら、神経症や精神障害と言うようなレッテルが貼られてしまう人が多くなるのも頷ける。
人間の事など、その心の事など、まだ、まだ、まだ、分かっていないのだよ、科学的には。


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