鬱病生活記

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 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第四章 社会復帰への階段

1.ニート脱却へ

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10月10日(土) 12:00頃

【精神分析をして何になる?】

唐突だけど、分かった事がある。
昨日のカウンセリングの事を私は思い起こしていた。

「一般に」と言えば良いのか、「単純に」と言えば良いのか、「知能指数が高い場合、(特に幼少であればある程、)勉強すれば天才や秀才になるだろう。よって、勉強させた方が得だ。」と認知されている。
でも、知能指数の度合いなど、人のパーソナリティを構成する1つの要因でしか無い。
同じく、脳も含めた身体的障害も、パーソナリティを構成する物の1因と考えられる。

人は、科学的に証明できる物や、五感で直接感じられる物に、価値を与えたがる、優劣を付けたがる。
人に対してもそうなのだ。
無数に存在するパーソナリティの要因の極一部が認知されているだけであろうに、その認知している部分だけで、人に対して価値を付けるのだ。

私は、こんな歳になってIQテストを受けたのだが、あんな物で計れる部分は、複雑怪奇な人間の極々僅かな側面でしかないと感じた。


何を言いたいのかと言うと、今の精神分析学とは、「木を見て森を見ず」に近い事を行っていると言う事。

私が受けているカウンセリングで私を精神分析したとして、そこで明らかになるのは、私がどの種に属する人間なのか、と言う事。
私の種が分かれば、どのような栄養を与え、どのような環境が適しているのか分かると言いたいのだろう。

しかし、人の分類事態、まだまだ未熟であろう。
人のパーソナリティを構成する要因など星の数ほどあるに違いない。
それが、現段階ですべて明らかになっているとは、到底考えられない。
そんな段階で、人の分類を行ったとしても、到底、理にかなった物が出来ている筈が無い。
10年前の植物の系統樹が間違っている事が、ここ数年の研究で明らかになってきているように、自然の事で人が手に入れている情報は、まだまだ少ないのだ。
人も所詮は、自然の一部。
自分で自分の事が全て分からない様に、そしてそれ以上に、人は自然の事を全て理解できない。

パーソナリティを構成する一部分だけを見て、人を分類する。
まず、そこが「『木=パーソナリティの1因』を見て『森=パーソナリティ』を見ず」である。

万一、パーソナリティが特定できたとして、その育成方法が本当に明らかになっているのか。
精神分析の結果、その後どうするのか。
人(個人)と社会とを結びつけて考えているのか。
これも、「『木=パーソナリティ』を見て『森=社会状況』を見ず」なのではないか。


こんな風に考えると、カウンセリングをどんなに行おうと、私は私が求めている地に辿り着けると、到底思えやしない・・・。
(まあ、カウンセリングを止めるつもりは、今のところ無いけど。)


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