鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第二章 精神病院での入院暮らし

1.精神病院生活記

<前へ> P.30 <次へ>


4/20(月) 11:30頃

【自傷行為の理由】

自傷行為とは、どこにも遣り様のない気持ちを紛らわせる為に行うものだ。
私が、私を意識的にぶん殴った様に。

タバコの火を、火傷もしない指で押さえつけ消しつつ、そう自覚した。



4/20(月) 14:00頃

【私の父の幼少期、戦中と戦後の様子】

私の身辺整理の手続きもあって、今日、昼頃に父と役所に行った。
手続きといっても、事務的なものは父が全て行ってくれ、私は“婚姻届け”だけ貰って、外でタバコを吸いながら待っていた。

“結婚届け”これは、私の未練の塊であり、殆んど望みがないだろう最後の希望であった。次彼に会い、話をつける際に差し出そうと考えていた。

父が手続きを終えやってくると、丁度、昼食時のピークが過ぎたあたりだったので、近くのファミレスに入った。

食事と言う行事を一通り終えると、どのような心持になったのか、父が自身の生い立ちについて話し出した。
定年退職し年金暮らしになるまで、基本的に父は仕事人間で、あまり自分の過去など語ったことが無く、また、我が家庭内ではその様な話題が上る事などなかった。(尤も、私は中学3年時代から、親元を離れ生活していたので、そんな事を語り合う時期が無かったのかもしれないが。)

私には特に刺激になるようなものでは無かったが、今まで知り得なかった、また、知ろうとも思わなかった彼の過去を知らされた。

彼は太平洋戦争直前に生れ、戦中に幼少期を過ごした。彼の父は、戦中それなりの地位を得ていたらしいのだが、それだけに敗戦後には、低賃金で過酷な労働をさせられる立場となった。
また、彼の父は酒乱であったらしく、酒を飲めば「日本が負けていなかったら俺は知事にでもなっていたのに。」と愚痴をこぼしては暴れる事が、少なからずあったと言う。そんなものだから、夫婦の中にも諍いが絶えない。物心の付いていた彼は、そんな家庭なものだから、ある種の帰宅拒否症とでも言うような心持になっていたらしい。
昔、私の母から聞いた話であるが、彼は中学時代に野球をしていたのだが、ヒットを打っても、活躍して勝負に勝っても、喜びを表に出さない子供だったと言う。(母が、父の母に聞いた話らしい。)
さらに、大変貧困でもあったから、彼は、とにかく“食べる事”と“お金を稼ぐ事”に対する強い執着心を身につけた。これもある種の“依存”だと私は捉えた。
しかし、この様な依存は、一般的に、社会的に、また、動物的にと言ってよいかもしれない、生きてく上では極々まともな物であるから、彼は自身の依存に対して、特段の自覚も無く暮らしてこれたのだろうとも思った。

私の場合、これまで食べていく事にも金銭的に苦労したことが無いものだから、人間として生きてく上で基本的に必要な執着心が育たなかったのかもしれない。だから、“食べる事”や“金を稼ぐ事”より根の深いところで、彼に“依存”してしまったのである。

他の者から見れば「たかが男女間のいざこざ」と片付けられてしまうだろう。
しかし、私の中の大きな穴、そして薬を飲まなければ胸を埋め尽くす、どろどろとしたどす黒い重い流動体は、この“依存”が断ち切られてしまった為に発生したものではないだろうか。



4/20(月) 15:30頃

【『三顧の礼』の真似事】

昼食後、父と別れた私は、登校拒否時代の恩師であるY先生に会いに行く事にしていた。
もちろん、「私自身が何か発見するかもしれない。」との思いもあったが、それ以上に、「私が先生にとって良い研究材料になるだろう。」との思いが強かった。
また、危機は免れたと聞いていたが、半年前に末期の胃癌で大手術を行っていた先生の状態も心配していた。

電車を乗り継ぎ目的の駅で降りると、準備してあった地図を頼りに、先生が切り盛りしているNPOの事務所へ向かった。
数分程度歩いただろうか?ゆるやかな坂道を登り、その場所へ到着した。

透明のガラス越しに、事務所の中が窺える。
パソコンは点いたままだが、電気は消されていて薄暗く、人気は無かった。
ドアの前で何度かコンコンとノックをしても、何の反応も無い。

ガラス越しに張られていた、このNPOのポスターに電話番号が載っていたので、持っていた携帯電話でその番号にかけてみた。事務所内から電話音でも聞こえるかと思ったが、ベルの音量が小さいのかそれは無く、また、電話越しに誰かが出るような事も無かった

茶でも飲みながら一時潰した後、もう一度来てみようと、辺りをぶらついた。
しかし、閑散とした郊外にある事務所の周りには、良い場所が見つからず、結局事務所に戻り、そのビルの階段に腰掛け、タバコを吹かしながら時間を潰していた。

「いよいよ先生も良くない状態になってしまったのではないだろうか。」と心配がよぎる。

一服した後、再度ガラス越しに事務所の中を覗くと、中にあるカレンダーはちゃんと4月にめくられている。パソコンが点いたままでもあるので、「ただ外出に出ているだけだろう。」と少し不安が拭われた。
もともとアポなしで“三顧の礼”的な乗りで来ていたので、「また次にしよう。」と思い、事務所を後にした。



4/20(月) 16:00頃

【人間の飼育方法(社会へ出荷前)】

恩師のY先生の事務所を後にし、駅前の広場まで戻ってきた。
日も落ちかけた夕暮れ時、保育園の園児のお守りだろう。若い女性が5〜6人の園児を、1つの大きなショッピングカートのような様なものに立たせ、ぶらぶら散歩をしていた。
ギュウギュウにカート詰め込まれ、大して動けもしない状態のあどけない子供達は、会話も無く、皆呆然と立ったまま辺りを見回している。
このご時世、両親とも共働きとかで、子供達は預けられているのあろう。
不図、私は自身のその頃を思い起こした。私は、午後になると幼稚園を出て、とにかく遊び相手を見つけ、夢中に遊び回っていた。実際、毎日「明日は何して遊ぼうか。」と考えるだけの日々だった。

「ああ、そう言えば養豚場から屠殺上に出荷される豚達も、ポークになる前にトラックの荷台に乗せられる。」
こんな皮肉が頭を過ぎる私は、やはり、どこかねじ曲がっているのかもしれない。



4/20(月) 18:00頃

【冷静に計画実行中】

私は、家(と言っても仮住まい状態の彼名義のマンション)に帰る途中、携帯電話のデータをPCに取り込むソフトを電気屋で買った。

また、彼に対して、携帯メールで次のような質問を投げた。
「マンションを買った当時、例え結婚はしなくとも、あなたは私を人生の一生のパートナーと思っていたのですか?」と。
直ぐに返答がなかったので、彼の会社へ電話を掛け、携帯電話を見て答えるように直接伝えた。
結局、彼の答は、「YES」だった。
これで、マンションを買う時は、お互い一生二人で暮らしていくつもりだった事が確認できた。実際、マンションのローン等は二人で折半していたし、ローンの繰り越し返済などもしている。マンションの理事会の役員が回ってきた時、主に参加していたのは私だ。管理人のおばちゃんは、私達の事を夫婦同然の様に捉えている。例え、名義が彼のものだとしても、これまでの暮らしは、内縁関係である事にほぼ間違い無い。

後は、現在彼が他の女性と暮らしているのであれば、内縁関係での彼の不貞行為は、ほぼ黒になる。
例え裁判になったとしても、私に利がある。

そんな事も、私は用意周到に計画している。


<前へ> P.30 <次へ>