鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第二章 精神病院での入院暮らし

3.精神病院から脱走

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それから、約一年半、この登校拒否生活は続いた。

最初の頃は、とにかく他人に見られる事が嫌で、家から出る事が出来なかった。
日中に表に出て誰かが私を見れば、「こんな時間に学校に行かずに何をしているのか。」と思われるだろうと怯え、家に居ても誰にも気づかれないように、ひっそりしていた。

次第に、学校が終わっているだろう時間帯には、外に出られるようになった。
近くのコンビニくらいには、行ける様になった。
しかし、同年代の制服姿の者が居れば、「あいつ学校に来ていない金子じゃないか?」等と思われてしまうような気がして、その様な者達に遭遇しないように用心して行動していた。

その内、土日は時たまやって来る父親が、「運動もしないのは良くない。」と言って、車でゴルフの練習場に連れて行っては、自分の練習も兼ねて、私に運動をさせた。
私は元々スポーツ好きで、小学校では学年トップクラスの運動能力があったものだから、ゴルフクラブを扱えるようになるには、それ程時間はかからなかった。
それに、ゴルフ練習場など、おじさんばかりで同年代の者が居るようなところでは無かったものだから、私も周りを気にせず、打ちっぱなしを楽しんでいた。

そうやって、それなりに表に出られるようになってからは、家族と一緒に、町中に買い物にも行けるようになった。
そんな事を続けているうち、「他人は私が考えている程、私の事(他の人の事)を気にしていない。」と言う事に気がついて、赤の他人なら、それ程気を張らずに接する事が出来るようになった。

この思春期に体験して気付いた、「人は他人の事など大して気にしない。」と言う考えは、私が大人になった今でも持ち続けている、世の中を生きる上で非常に重要な観念となった。

逆に言えば、私はそれまで(もしかしたら今でも)、他人の事を変に気にしていた。
私は他人を見れば、「あの人はどんな生活をしているのだろうか。」とか、見かける全ての人に対して、変に色々な想像をしていた。
だから、他人も私を見た時、私の登校拒否と言う行為が見抜かれてしまうように感じていたのである。

そんな考えも、人の多い町中に出れば、大して気にする事では無い事実に気付いたのだ。
大概の人は、所詮、自分の半径10メートルぐらいの事にしか、頓着していないのである。もっと言ってしまえば、自分に関係の無い事など、気にしないのである。
自分の生活をどう良くするかと考え、仕事は淡々とこなし、人間関係も煩わしい部分は遠ざける。
これが、“普通”の人の生活の仕方なのだと考えるようになった。

この登校拒否の時代に得た体験は、私を強くした。
他人の事を変に心配したり、関わったりする事には、大して意味など無いのだと考えるようになった。
それが、今の世を生き抜く為の重要な事だという事は、今も頭の片隅にあり、今までこの病気になるまでは、その心構えで活動していた。

こうした生活を続けていた中、それなりに表に出られるようになった私は、中学校二年生の後半頃から、父の居るマイホームに戻り、これまでの学業を取り戻すべく、日中は近くの私塾に通う生活に移った。
この頃、私の兄はシンナー中毒になっており、どこかの施設に入れられていた。
マイホームには、父と私が生活し、別居先の母と弟は、その学期(当時、弟は小学校5年生だった。)が終わるまでそこで生活を続け、弟が6年生になるタイミングで、別居生活を止め、母も弟も、こちらに来る手筈になっていた。

私は塾に通い、約半年で、中学生の基本的な勉強を教えて貰った。
そして、中学3年生になってから、小学生時代の学友も居る中学へ、登校するようになった。

しかし、小学生時代に登校拒否をしていた私は、やはり遠巻きにされている感があり、昔仲の良かった幾人かも、陰で何やら詮索しているような感じだった。

ただ、小学校時代の大親友だったOさんは、当時と変わらず接してくれた。
また、特別遊ぶ回数が多かった友達でもなかったのだが、Tさんも私を気遣ってくれていたらしく、一人でポツンと居る時に声をかけてくれた。
Tさんは、生徒会の代表を務めているらしかった。小学生時代の友人だった彼女は、貧しい家庭に育ちながらも、非常に勤勉で、人に温かい者だという事は知っていた。
だから、彼女がこうして生徒会を務めている事は、それ相応に良く成長してきた証しだろうと思えて、人ごとながら非常に安心したのを憶えている。
私は、やはり他人(この場合は旧友達だが)の事を色々気にかけているらしい。

そうやって、担任の教師も含め、私を気遣ってくれる存在が居る事は、ほんの少し私に安心感を与えてくれた。


しかし、そうした者は多くない。
そして、数学以外は、授業の内容もチンプンカンプン。
1〜2週間くらいは、登校しただろうか。
それからは、ぽつりぽつりとしか学校に行かなくなり、「(小学校からやっていた)バスケットボールのクラブ活動だけでも良いから出たら。」と言う周りの助言もあったが、これまでろくに運動のしていない私は、昔ほどの運動能力が無い事を自ら自覚していた節もあったので、その様な行動に出る事も無かった。

そしてまた、学校へは行かなくなってしまった。


両親は、登校拒否児の面倒を見てくれる施設を探し、「山梨の廃校を利用した、田舎の施設に行かないか。」と言いだした。
私も環境を変えたかった為、それに従った。

そこは過疎化した山村で、日々の生活は、鶏を飼ったり、少しぐらいの作物を作ったりしているようなものだった。
また、同じような境遇の仲間も居たので、それなりに語り相手も出来た。

そこでの夏の生活を終えると、私は、もっと多くの不登校児達が集まっている、同系列の別の施設で生活をする事になった。

ここでは、中学校の基本的な勉強を教えてもらい、紹介さた高校を幾つか受験して、目出度く、寮のある高校に入学する事が出来たのである。
(この中学3年生時代の生活は、非常に楽しかったのを覚えている。)


私は寮のある高校に入ってからも、やはり他人の目の怖さが気になっていた。
地元の生徒が大多数だったので、特に話し相手も居なく、それでも「他人の事は気にしない。」との思いから、どちらかと言うとひっそりと孤独に学生生活を送っていた。

そんな中、それなりに器量があったのか、他より大人びた雰囲気が魅力的だったのか、私は、「同性の友達を増やしたい。」という思いとは裏腹に、先に男性ファンが増えてしまった。
私は、特に気になる男子も居なかったので、周りに取り巻く彼等を無視し続けていた。
そんな状態が災いして、女子生徒からは、さらに遠ざけられるような境遇になった。
それでも「我関せず。」との思いで、多少孤独な学生生活をスタートさせて行った。

そして1年生の、ゴールデンウィーク中だったと思う。
寮が休みになるので、私は実家に帰らなければならなくなった。

私は、新しい環境で、それなりに気を張り、頑張っていたつもりだった。
そして、家族も、主に兄の問題について生産的な対応をしていると思っていた。

しかし、家に帰ってみるとどうだろう。
いつの間にか戻っていた兄の棒弱無人ぶりに、「この家庭は変わらないのか・・・。」と虚無感を憶え、自分の頑張りと家族の中での頑張りがズレている事に泣いた。
そして、「早くこの家を出て独立しよう。」と言う冷たくも強い執念が私に芽生えたのである。
「もう、家族には期待しない。自分の力で何とかしなければならない。」
この時、そう思ったのが、親離れとでも言うべき、私の独立願望の根底である。

その後は、それ程大きな問題も起こさず、寮生活の中で次第に友達も増やし、学力が低レベルな学校だった事も手助けし、それなりに優秀な成績で卒業した。
そして、親にこれまでかけた経済的負担を幾らかでも解消したいと思い、国公立の大学に現役で入学し、その大学も無事に4年で卒業。
それから、就職難の時期にも拘わらず、小さいベンチャー企業だったが、無事就職する事が出来た。

この頃には、過去の登校拒否の時代等の事も、「面白く、貴重な体験をした。」と自分なりにポジティブに捉え、念願だった独立を果たせた事に満足し、新人に良くある無駄な空回りをしながらも、仕事を積極的に覚えて行き、人並みに社会へ出る事が出来たのだった。


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