鬱病生活記

 表紙
 目次
 はじめに
 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

第三章 鬱病者としての日々

1.閉じこもり生活

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【精神障害者と天才は紙一重】

そんな風にベースを弾く機会が増えて行くと、何だか、ベースをつないでいるコードが煩わしく感じるようになってきた。そこで、ニートの分際で2万円程度のコードレスシステムを衝動買いしてしまった。買うと言っても、この便利な世の中。ネットショップで、注文して、それが届くのを待つだけだ。もともと、コードレスヘッドホンを持っていたので、注文した物が届けば、ベースを担いでヘッドホンをして、ぶらぶら歩きながら、くるくる回りながら、ベースを弾く事ができるようになる。

そんな事を考えていると、元ギターリストの友人から、「最近スタジオを借りてドラム叩いているんだけど、良かったら来ないか。」と言う誘いがきた。残念ながらネットで注文したものが届く前だったので、コードレス環境でベースを弾く事は出来ないが、久しぶりにアンプから爆音を出して、音を体で感じる状況も良いなと思い、その友人の誘いに乗り、電車で片道1時間半程かけて、診察の日から1週間後、6月12日(金)の事だったと思う、音楽スタジオにベースを担いで遊びに行った。

外出は非常に億劫である物の、事前に予定を入れておけば、何故か「それをしなければ。」と言うような焦燥感のような物から、物事を実行する。病院に診察に行くのも、買い物に行くのも、こんな感覚で行ってる。これも一種の病気、または、その症状なのだろう。

平日だったのだが、その友人は所用がありその日に休暇を取っているとの事。「所用は、午前中くらいに終わるから、スタジオは午後6時からなのだけど、午後1時くらいに来てよ。お茶でもしよう。」と誘われていたので、私は、お昼前に家を立ち、友人の所に向かった。
ところで、この友人とは、私が大量服薬の一件の直後に相談を持ちかけた、鬱病歴8年の友人だ。
予定時間に落ち合うと、喫茶店に入り、スタジオの開始時間まで、自然と会話が弾む。

定期的にその友人には、私の入院の状況だとか、退院したとか、今も行くところが無いので、取り合えず元彼名義のマンションで、気の向くまま生活をしている事を等を伝えていた。
私は、他人と会話している時は、とても鬱病者だろうと見受けられる症状は出ない。こんなものだから、「自分は単に怠けているだけでは無いのか。」との思いが頭を過る。
その鬱病者の友人との会話なので、やはり病気についての話題が多い。その友人も、今現在の様子は私と似たよう感じだ。友人の行動を他人が見ても、誰も鬱病者だと思うような挙動は見受けられない。さらに彼は結婚していて、家に帰ればそれなりの相手もいるだろうし、生活ぶりは安定しているのだろう。しかし、毎食後の薬と就寝前の薬は、私より強いものを飲んでいる。
それに対して私は、家で一人で居る時が一番煩わしさを感じる。適当な話相手も居ないので何をしようか落ち着かず、そんな時は『デパス』を飲む、といった具合だ。その友人も、一人の時は私と同じような、嫌、私よりもっと酷い状態だったらしく、私の今の心境を察する事が出来るようだった。
話題は、自然と「天才に精神障害者が多い。」と言う話に移っていった。文学者では、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治。画家では、ゴッホ、ピカソ、ゴーギャンなんかもそんな部類では無かったのだろうかとか、音楽家では、ベートーベンなど統合失調か躁鬱だったんだろう等と、語り合った。
お互い音楽の趣味が共通しているので、私は「MDに昔録音していた『鬼束ちひろ』さんの曲を聞いたんだけど、彼女もきっとこの部類だね。」と言うと彼も頷き、「それと『Cocco』さんも気になるね。」と友人が言う。確かに私も同じ思いを抱いていた。「でも『Cocco』さんの曲には、まだましかな。彼女のデービュー当時の曲で『Raining』という曲あるけれど、幼い少女が自傷行為をするような歌詞だったよね。彼女が幼かった頃、恐らく彼女のおじいさんと思われるのだが、その人が死ぬという出来事について、幼いながらも強い感受性で得た体験を元にした詞のようだ。でも、曲調も明るく、何処かにまだ救いが感じられるんだよね。」と私は感想を述べた。

そんな談義をしていると、スタジオの時間になり、その日は夕方は、久しぶりに大音量の演奏で楽しんだ。

しかし、帰る時はしんどかった。何せ金曜日の夜。家路までの電車は、満員状態。しかも、ベースやら何やらの大き荷物を持って、そんな中に入られければいけない。良く、『鬱病になると、人眼が気になり電車など乗れなくなる。』などと言うが、私の場合、その症状は無い。
私がしんどいのは、単純に「満員電車で荷物が多い」と言う一般的なものだ。勿論、満員電車など好きでは無いが、必要があれば、乗る事が出来る。そもそも、「人眼が気になって表に出れない。」と言う症状は、私が登校拒否時代に克服した物なので、今例え『鬱病』になっているのだとしても、そんな特に人眼が気になる事は無い。寧ろ気になるのは、親や親戚が下手に心配がって気を使う、そして、そうやって気を使われている事を自分自身が感じる取ってしまうのが何より嫌である。

つまり、同じ『鬱病』と言っても、人それぞれ症状が違うので、変な先入観で接しないように、これを読んだ人には忠告しておきたい。「ああ、そうなんだ、鬱病なんだ。」と相手に開けっ広げに言い放って、だからと言って特別扱いしないのが、鬱病者にとっては心地良いのではないのであろうか。少なくても今の私はそう感じる。


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